5.地図で見る上北沢地区の歴史

 

1)明治以前:上北沢は古くからの村落
 旧上北沢1丁目(現桜上水4丁目)にある勝利八幡神社は平安時代1026年建立の、多分世田谷区内最古の八幡様です。ヨークマートから八幡山駅までの赤堤通は、古来「古府中道」と呼ばれ、大化の改新当時からあった道で、北烏山の「下本宿通り」を経由し「人見街道」で府中と連絡していた重要道路で、1604年に甲州街道が完成する以前はこちらが本道でした。又、もう1本の古道「滝坂道」は、ヨークマート前から八幡山の八幡様に向かってY字型に別れ、仙川の先の「滝坂」で現在の甲州街道の原形に連絡し、府中に通じていました。

2)上北沢村は古来から交通の要点
 上北沢村はこの様に古来から交通の要点であった上に、水が豊富で稲作に適した土地なので、住み易い所だったと思われます。甲州街道が完成してからは、村の北側「山谷地区」の景気が良くなり、「高井戸宿」と協調体制が出来、現5丁目に有った「寺子屋」は、「高井戸塾」と呼ばれていた様です。
 上北沢は稲作でも収穫量が多く、徳川時代は1638年(安永15年)には天領に、1714年には増上寺領になり、幕府から大切に扱われています。
 徳川時代の上北沢は、チョットした観光地でした。現在の緑が丘中学の土地は「鈴木左内の牡丹園」が有った場所で、「榎本屋敷の藤」「喜太郎のつつじ」と共に有名で、江戸から花見に人々が押し寄せたと言われています。

3)明治以降:村の大型合併
 明治になり、村の大型合併で、上北沢村は赤堤・松原と合併し「松澤村」になりました。
 小学校も、明治6年に出来た「榎本学校」をもとに、明治12年に村立の「上北澤村小学校」が出来ましたが、松原・赤堤村共有の松堤小学校と合併する事になり、赤堤に作った松澤小学校に統合し、赤堤まで通うことになりました。(上北沢小学校の創立は、明治12年或いは明治6年とするのが良いと思います)


< 明治14年 >

4)大正以降:京王電車の開通
 1915年(大正4年)京王電車が新宿−調布間に開通してから、上北沢は変わり始めます。大正8年に松澤病院が巣鴨から移転して来ます。その頃「田園都市」と称し、郊外に住宅地を作る風潮が出てきました。上北沢でも現3・4丁目が大正13年(1924年)、旧2丁目(現桜上水5丁目)が1927年頃、少し遅れて現5丁目がという具合にドンドン住宅地が増加し、京王沿線での先進地区に為りました。


< 大正8年 >



< 昭和4年 >

5)現在
 現3・4丁目の住宅地に付いては、別途資料が有りますのでそちらを参照して下さい。
 上北沢と言うと3丁目の桜並木が有名ですが、4丁目にも桜上水駅迄の間に南北に3本ほど美しい桜並木が有りました。桜の樹は手入をしないとすぐ弱ってしまい、自動車からは邪魔者扱いにされ、いつの間にか消えてしまったのです。同じ事が住宅地に付いても言えます。現4丁目の住宅地には、3丁目には無い大変立派な邸宅が幾つか有りましたが、現在残っておりません。住宅地も消えてしまうのです。


< 昭和30年 >



< 現在 >